第1章 プルメリアの花言葉

Photo by Kuni Nakai     Written by Kojiro Sawa

僕は初めて目にする巨大な波を見て息を呑んだ。
その日は、サーフィン最高峰のコンペティション「トリプルクラウン」のフィナーレを飾る「パイプライン・マスターズ」ラウンドワンの日。世界トップクラスのサーファーと世界最大級の波をひと目観ようと、ビーチはたくさんの人で埋め尽くされていた。

このひと時をいつか味わいたかった。

僕は旅行雑誌の取材でハレイワを訪れていた。

同行していたカメラマンに頭を下げ、取材の合間に、その夢を叶えることができた。
映像でしか観たことのない世界が目の前に現実としてある。
サーファーとしては憧れの瞬間でもあった。
次の取材のことなんて正直頭になかった。

頭から血を流しているオーストラリアの選手が真二つに割れたボードを片手に、浜辺へと上がってきた。
観衆からは大きな歓声が沸き起こった。

サーファーが無事生還したことを心から喜び、そしてリスペクトしているのだ。
その痛々しい光景に目をやっていると、カメラマンに肩を叩かれていることに気がついた。
もう時間だった。カメラマンにお詫びをし、すぐに取材先へと向かった。

取材は最終日を迎えた。
予定よりも順調に進んだため、この日は滅多にないオフとなった。
幸いなことに、「パイプライン・マスターズ」のファイナルラウンドの日と重なった。
「トリプルクラウン」の優勝者と今年の年間チャンピオンが決まる日だ。
その瞬間に立ち会えるだけでも興奮した。

仕事用のレンタカーではなく、The Bus(オアフ島内を走る公共のバス)に乗ってノースへと向かった。
数十回目のハワイにしてThe Busに乗るのは初めての体験だった。
初めてハワイを訪れる観光客のような気分を存分に楽しんだ。

ハレイワの街に近づくと、道路の両脇は車で埋まっていた。

バスを降りて駆け足で会場に向かったその時、ある女性とぶつかった。

彼女の耳にかけていたと思われるプルメリアの花を彼女は拾いながら、僕の顔を見て謝った。吸い込まれそうな大きな瞳をした品のある黒人系の女性だった。

「こちらこそ。怪我はありませんか?」

僕は慌てていた自分に後悔した。

「ええ。大丈夫。あなたこそ。私も余所見をしていたから。これから大会を観に?」

「はい。こんな瞬間に立ち会えることは滅多にないですから。」

「そうね。是非楽しんできて。それじゃあ。」

彼女は人の流れとは反対に向かって足早に歩いていった。
今度は人とぶつからないよう、会場へと急いだ。

結局閉会式が終わるまで僕は会場にいた。
優勝者はハワイ出身のサーファーだった。
バスが混まないうちにバス停へと急いで向かった。

ワイキキに着いたのは17時過ぎだった。

ホテルへ戻り、シャワーを浴びて、一息ついてから、ジャズの生演奏が聞ける行き付けのバーラウンジへと向かった。
そこはワイキキの真中にあるホテルの地下にあるのだが、観光客とは無縁の場所だった。
いつもの壁側の席に付き、マルガリータをオーダーした。

1時間ほど過ぎた頃、ピアノの生演奏が始まった。
曲は大好きなアキヨシ・トシコのナンバーだった。
ピアノの方に目を向けると、今朝ぶつかった女性がピアノを演奏していた。

僕は驚いた。

左耳には、僕とぶつかった時に落とした黄色と白のプルメリアの花が刺してあった。
演奏の途中彼女と目が合った。
どうやら向こうも僕に気がついた様子だったが、すぐに演奏に集中しようとしているのが分かった。

演奏が終わり、彼女はステージの裏へと姿を消した。
20分ほどして、ウイスキーの水割りが入ったグラスを持った彼女が僕のところへとやって来た。

「おひとり?こんなところでまた会えるなんて。」

「ええひとりです。ここにはよく来るんです。まさかこんなところで。」

「私はここで演奏するのは今夜が初めてなの。ハワイには数年前に来たばかりで。」

僕は彼女の耳に目をやった。

「どうしてハワイに?ご主人がハワイの人だから?」

「え、どうして?」

「いや、左耳に花を刺している人は既婚者か恋人がいるという意味だから。」

「でも何で結婚しているって思ったの?」

「男の勘です。」

彼女は白い歯を見せて微笑んだ。

「ところで、今日は何でノースに?」

僕はマルガリータを一口飲んで彼女に質問をした。

彼女は下を向いて黙り込んだ。
どうやら聞いてはならない質問だったようだ。

慌てて次の質問を考えようとしたその時、彼女の方から口を開いた。

「実は、私の彼はハワイ出身のプロサーファーで、5年前のパイプライン・マスターズで帰らぬ人に。だから、毎年この時期になるとあの場所へ行き、彼の好きだったプルメリアの花のレイを海に流すの。まだ現実として受け止めるには時間がかかるけど、いつまでも逃げてられないから。本当はあまり人のいない時間に行きたいのだけど、まだ1人で行く勇気がなくて。だから敢えて大会の真最中に行くの。でもやっぱり長い時間あそこには居られない。この花を耳にさしているのもずっと彼を忘れないため。プルメリアは彼が大好きな花だったから。ごめんなさい。話を変えましょう。」

僕は何も言葉にできなかった。

するとまた彼女の方から話を切り出した。

「あなたは何でハワイに?」

「旅行雑誌の取材で日本から年数回こうして来ています。今日が最終日で。最終日の夜は大概ここにひとりで来ることが多いですね。でも来月またハワイに来ますけどね。」

ふと彼女の綺麗な手に目が留まった。

「ピアニストだけあってとても綺麗な手ですね。きっといろいろと気を使われているのでしょうね。」

すると手首にあるTatooに目がいった。

「Angela」と彫られていた。

「お名前Angelaって言うのですか?」

彼女は恥ずかしそうに手首を隠した。

「パパが付けてくれた名前なの。」

「素敵な名前ですね。そういえば、プルメリアの花言葉って知っていますか?」

「花言葉?いいえ。」

「気品です。」

「気品?」

「そう。あなたにぴったりな言葉ですね。だからあなたの彼もプルメリアが好きだったのではないかな。なんだかそんな気がします。」

「そうかしら。考えたこともなかった。でもいいこと教えてもらったわ。どうもありがとう。」

彼女は汗を掻いたグラスをハンカチで拭きながら続けて言った。

「来年東京でピアノのコンクールがあるの。」

「行きますよ。絶対。」

「絶対なんて約束しない方がいいわよ。行くか行かないかもわからないのに。それに今日初めて逢った相手に。男の人はそうやってすぐ女性に期待をもたせるものよ。それはよくないわ。」

社交辞令ではないであろう、彼女のその態度がとてもうれしかった。

「その時は、右に花を刺して行こうかしら。」

(右の耳に刺しているのは恋人募集中の意味)彼女は本気とも嘘とも取れる笑顔を見せた。

「もし、本当にあなたが来てくれるならそうしようかしら。」

気品があるなかに、まるで少女のような眼差しで見つめられた僕は恥ずかしくなり、残りのマルガリータを一気に飲み干した。

それを見て笑った彼女の方からはプルメリアの気品溢れる甘くてやさしい香りが漂ってきた。