
Photo by Kuni Nakai Written by Kojiro Sawa
旅行雑誌の初日の取材は無事に終わり、ホテルの部屋に戻ったのは22時過ぎだった。
少しベッドに横になろうとした時、枕元に何かを見つけた。
それはハイビスカスの模様が描かれた小さな水色の紙に“Mahalo”(ハワイ語でありがとうという意味)と書かれたメモだった。
誰だろうと不思議に思ったが、それは14日間の滞在中毎日同じ場所に欠かさず置かれていた。
それがチップのお礼だということに気が付いたのは滞在7日目の朝だった。
こうしたお礼のされた方は初めてだったが、なんだか気持ちが穏やかになった。
毎回義務的に置いていたチップも8日目の朝からは少し違った気持ちで置けるようになった。
最終日の朝には僕も“Mahalo Nui Loa”(ハワイ語でどうもありがとうという意味)と書いたメモをチップに添えて部屋を出た。
ハワイに来ると、こうした予期せぬ素敵な出来事によく出合える。
日本では非常識にとられることが、ハワイでは心を満たしてくれるささやかな幸せになる。
こういう時間が、日本へ帰国すると同時に、またハワイを訪れたくなる理由のひとつかもしれない。
取材日2日目の空き時間に、日本とハワイの文化交流を図る非営利団体の理事長、ダイモンさんとランチをすることになっていた。
僕の母親と同じ年齢であるダイモンさんは割腹がよく、笑顔がチャーミングなジェントルマンだった。
ダイモンさんとは以前仕事を通して知り合った。今回はわざわざお願いして会う時間を作ってもらった。
どうしても個人的に聞いてみたい話があったからだった。
ダイモンさんは日系3世で、彼のお父さんや、お爺さん、つまり、日系2世や1世の方たちの時代のハワイについて話を少し聞いてみたかったのだ。
待ち合わせはホノルル郊外にある、ダイモンさん行きつけのチャイニーズレストランだった。
僕が先に店に着いた。
5分ほど遅れて、アロハシャツにキャップという、いつものお決まりの格好をしたダイモンさんがやって来た。
「どうもお久しぶりです。今日はわざわざありがとうございます。」
「いえいえ。私も暇だし、子どもが居ない私にとって、息子のような君と話が出来るのはとてもうれしいよ。」
ダイモンさんはキャップを取りながら、笑顔で言った。
飲茶をつまみながら、少し世間話をした。
それから、ダイモンさんが話を切り出した。
「ところで“カマアイナ”という言葉をご存知ですか?」
「ええ。ハワイに住む地元住人のことですよね。」
「そう。この“カマアイナ”というのは、異国の人々を受け入れながら、上手に社会をひとつにまとめた上で、さらにハワイの伝統をちゃんと維持しようとしているのが特徴です。この小さな島々は、多くの移民の文化、価値を認め争いごともなく共存しているのです。」
「まさに全てを受け入れるというアロハ・スピリットの精神ですね。」
僕はエビ餃子を取りかけながら言った。
「そうですね。ハワイが多民族社会になった理由は主に2つあって、1つはキャプテンクックの到来で、ヨーロッパから持ち込まれた病原菌によって大量の先住民が病死して、人口が激減したこと。もう1つは、19世紀以降、白人企業家たちが始めた砂糖きびプランテーションのために必要な労働者を主にアジアから大量に移民させたことです。なかでも、日本人移民は、最大の移民集団でした。そこでの生活は過酷そのものだったようです。耕地の労働者用の小屋での貧しい生活と、早朝から夜にまでわたる長時間労働を強いられました。支給される給料もわずかで、当時の苦労は計り知れないものがあったと聞きます。」
ダイモンさんは一度飲みかけたグラスを置いて話を続けた。
「また、その後に起こった戦争も忘れてはなりません。もちろん戦争で苦しんだのは、ハワイにいる日系人だけではありません。戦争を体験した世界中の人たちが苦しみ、全てを奪われ、そして必死に生き残りました。しかし、残念ながらそういった歴史は時代とともに徐々に忘れられてしまうものなのです。」
実際戦争を体験していない僕にも言われている言葉のようにも思えた。
ダイモンさんは箸を持つのを忘れて話を続けた。
「ご存知の真珠湾攻撃のあとには、多くの日系人達がホノルル港外にある、サンド・アイランド収容所に抑留されました。彼等はスパイとして疑われたのです。日本の血が入っているという理由だけで。全米規模では、12万人もの日系人が強制収容されました。ハワイ生まれの日系2世達は、真珠湾攻撃による、日系人への不信感を晴らし、また抑留された肉親を開放してもらうために、アメリカ国民の一因として最前線に出て戦おうと、こぞって兵役を志願しました。彼等は、“日系四四二連帯”と呼ばれ、最激戦地で戦いました。多くの犠牲を強いましたが、アメリカ軍初の、大統領感状を7度も受けるという栄養に輝き、全米で賞賛を受けたのです。戦争でたくさんのものを奪われた日系の人たちは、あきらめず、今日まで必死に生きてきたのです。」
そういう人達がハワイを支えてきたということを忘れかけていた僕は少し反省をした。
「また、終戦の翌年の4月1日には、ハワイ諸島を大津波が襲いました。そうしたさらなる悲劇をも乗り越え当時の人たちは苦しい日々を一日一日と生きてきたのです。私の母も女手ひとつで、いくつもの仕事に就き、我々息子3人をここまで育ててくれました。母はアメリカで生まれ、日本で教育を受けて、再度アメリカに戻りました。こうした母のような日系人は“帰米2世”と呼ばれていました。見た目や心は日本人だけど、立場はアメリカ市民として戦争を戦いぬかねばなりませんでした。母は僕たち息子の前で1度も弱音を吐きませんでしたが、想像を絶する辛さだったと思います。これはハワイだけではなく、戦争を体験した世界中の人に言えることだと思います。」
ダイモンさんは目に涙を浮かべていた。僕も話に耳を傾けるのが精一杯だった。
ダイモンさんは温かいジャスミンティを一口飲んでから、話を続けた。
「ハワイには低所得者用公共住宅があって、貧しい移民や難民たちが今でもそこに住んで居ることをご存知ですか?」
「いいえ。」
何度もハワイに足を運んでいたがそんなことは聞いたことがなかった。
少し恥ずかしさを覚えた。
「ハワイを訪れる多くの人たちはそんなこと知らないはずですよ。だけど皆に知ってもらいたいなんてことも思わないです。ただ、こういった日本や他の母国の血を引いた人たちがハワイで歩んできた道を、僕たち子孫はいつまでも忘れてはならないと思うのです。
今でも、“ツナミ”“トーフ”や“ベントー”などの日本語がそのまま使われているのも、昔から日系人がハワイで生き抜いてきた証なのです。彼等は、この狭い島社会を住みやすい土地にしようと努力し続けてきました。あなたも含めて、ここを訪れるほとんどの人々は、ここハワイを“楽園”と呼びます。この土地の環境、気候、住民の明るい人柄などがそう呼ばせているのも事実ですが、こうした人たちが今あるハワイを築いてきたということも、“楽園”になったひとつの理由のような気がします。それぞれの国からやって来た移民を色で例えるなら、異なった多くの色がうまく溶け合って光輝く黄金色になるのではく、それぞれ個々の美しさを保ちながらも、ひとつのまとまりとなっている様は、まるでこの島に現れる虹のようだと私はいつも思うのです。ハワイが“レインボー・アイランド”と言われる所以は、単に虹がたくさん出るからだけでなく、こういう意味も含まれているような気がします。」
ダイモンさんの言葉はとても重かった。
2時間ほどが過ぎた頃、僕等は店を出た。そして再会を誓って別れた。
見上げた空には、大きな虹が掛かっていて、そこに黒い点が見えた。
それは、どこかの国からやって来た、いろいろな思いを載せた飛行機が小さな影となって、空から降る虹色のシャワーを浴びる瞬間だった。