第1章 ダブル・レインボーが教えてくれた

Photo by Kuni Nakai Written by Kojiro Sawa

鳥たちの囀りで目を覚ました。毎朝ラナイ(ベランダ)には小鳥たちが遊びにやって来た。

僕等はワイキキの喧騒から少し離れた小さなホテルに滞在していた。

うっすらと目を開け、ユウイチがロングボードを抱えて部屋を出て行くのを確認してからそっと起き上がった。2人のベッドの間にあるナイトテーブルの上には、昨日と同じように大好物のツナサンドとコーヒーが置かれていた。これでもう4日目だ。2人で大好きなサーフィン三昧の楽しい旅となるはずだったのに、ユウイチとは到着日に少しぎくしゃくして以来、会話という会話をしていなかった。それでも、毎朝僕のために用意されている朝食がなんだかとても切なかった。

バスルームのミラーに映る疲れ果てた自分の顔を見て少し情けなくなった。顔を洗い、ユウイチが用意してくれた朝食を食べて、1時間ほど遅れてユウイチとは違うサーフポイントへと向かった。

真っ青な空とエメラルドグリーンの海が曇っていた気持ちを数時間だけ晴らしてくれた。

波は3フィートほどだった。念入りにストレッチをして、右足首にリーシュコードを付け、海に祈りを捧げ、まだ冷たい海にゆっくりと入っていった。
初心者でも楽しめるサーフポイントとあって、朝から多くのサーファーが波乗りを楽しんでいた。最初から波をキャッチすることができたが、どうしても右足からボードに立つ癖がまだ治らない。あと1歩のところでなかなか上達しない。波乗りの難しさを実感するばかりだった。すぐ横では小さな女の子が大人顔負けのライディングをしていた。ハワイで生まれ育った彼女等が少し羨ましく思えた。

残り数日間の間に少しでも上手くなり、1日も早くユウイチと一緒に波乗りを楽しみたかった。

そして、やっと1本この日最高のライディングができた。1人波に乗りながら大声で笑った。そして叫んだ。この感覚がたまらない。だから波乗りはやめられない。

ただ、傍にユウイチが居なかったことがとても残念だった。

普段にはないほど海に入った。数時間波乗りを楽しんだ後、ビーチにあるシャワーへと向かった。サーフボードを壁に立て掛け足に付いた砂と体中に付いた潮を洗い流した。サーフボードを洗おうとしたその時、日本人観光客らしき2人の女性が声を掛けてきた。どうやら僕をロコだと思ったらしいが、日本人だと分かり、がっかりしてそのまま行ってしまった。真っ黒に日焼けしているせいか、よくあることだった。

草むらに隠しておいたビーチサンダルを履いて、カラカウア通りの喧騒を足早に抜けた。少しお腹が空いたので、サーフボードを持ったまま、クヒオ通りにあるハンバーガーショップでランチをとった。サーフボードを置きに部屋に戻れば、ユウイチが居るはずだった。
目の前を楽しそうに闊歩する観光客を横目に見ながらフレンチフライを頬張り、初日のことを思い出した。

「やっぱりこの風とこの香りはいつ来ても最高だね。」

ひと回り年上のユウイチは無邪気な子供のように言った。

いつものミニバンのレンタカーに乗り込み、ノースへと車を走らせた。

ユウイチが新しいサーフボードを買うためだった。そこはハレイワにある行きつけの小さなサーフショップ。看板娘のメアリーと久しぶりの再会を喜びながら、どこのポイントがいいかを聞いた。彼女の笑顔は人を惹きつけた。日系人の彼女は日本語が話せず、僕等がその店へ行く度に日本語をひとつ彼女に教えるというのがお決まりだった。この日は「レインボーって日本語で何と言うの?」と聞かれたので「ニジ」と教えてあげたが、「ジ」という発音がどうやら上手く言えないらしく、悪戦苦闘していた。レジに向かいながらずっと「ニジ」と連呼する姿がなんとも可愛らしかった。

お気に入りのサーフボードはすぐに見つかり、近くの大好きなメキシカンのプレートランチ屋で早めのランチをすることにした。
真っ青な空と頬をなでる貿易風がとても心地よかった。

カラカウアの通りの西の外れにある定宿に向かった。アーリーチェックインを済ませ、35階にある部屋に入った。初めての最上階での滞在だった。
広々とした部屋と十分にロングのサーフボードが2枚置けるラナイから見下ろす絶景に僕等は興奮した。アロハフライデーの夜には目の前のヒルトンホテルから花火が観られる最高のロケーションだった。

ユウイチは部屋で落ち着くことなく、早速スイムスーツに着替え、新品のサーフボードにワックスを塗り始めた。

「もう行くの?」僕は驚いたように尋ねた。

「当たり前だろ。波乗りしに来たんだぜ。」ユウイチはちょっと怒った表情をした。

「ちょっと疲れたから、僕は後で行くよ。」

徹夜が続き、出発日の朝まで仕事をしていたので、精神的にも肉体的にもクタクタだった。正直そんな気力はなかった。
ユウイチはそんな僕を置いて、黙ったまま1人海へと向かった。
結局ユウイチが戻るまで僕は昼寝をしてしまった。

ユウイチと出逢ったのは7年前。当時学生だった僕がアルバイトしていた店の先輩だった。お互いの第一印象は悪かったが、波乗りをするということが分かってから、話をするようになり、週末になっては毎週2人で湘南の海に行き、夜は毎晩のようにお酒を飲みながら朝まで語り明かしていた。
波乗りを通して、年齢差を越えた、お互いに無くてはならない存在となっていた。

飲みに出掛ける度にハワイと波乗りの話ばかりをしていた。

「いつかはハワイの海でお前と、でっかい波に乗るのが俺の一番の夢だ。」

不器用なユウイチは時々酒の力を借りては、本音を言うことがあった。
きっとそれが今回のハワイだったのだろう。
今回の旅で、僕はユウイチの期待をことごとく裏切ってしまったのだ。
ハワイ滞在もあと3日。もう時間がない。僕は戻るようにまた海へと向かった。

翌朝も、その翌朝もいつもと変わらない朝だった。
そしてついに最終日。朝はいつものように、それぞれ違うポイントに入った。

夕方になると最後の波乗りを楽しむために、ユウイチはまたひとり海へと向かった。
背中がいつもより、なんだか寂しそうにも見えた。
僕も、少し遅れて海へと向かった。
今度はユウイチを追って。

紫ともオレンジとも形容しがたいとても美しい空だった。

ゆっくりと濃い紫へと変わり、無段階に色の変化を遂げていった。

夕方ともあって浜辺にはほとんど人の姿はなかった。

ユウイチは、パドルをしながら波が立つポイントへと向かった。

そこは15分ほどパドルをしないとたどり着けない場所だった。

ポイントまで半分位のあたりで、ユウイチは突然パドルを止めた。

後ろをゆっくり追いかけていた僕も釣られてパドルを止めた。

ユウイチの向ける視線の方向に目をやると、カイマナヒラ(ダイヤモンド・ヘッド)の頭上には、大きな大きな、ダブル・レインボーが掛かっていた。
それは見たこともない大きくて美しいものだった。

海には僕たち2人しかいない。

ユウイチが後ろに僕が居たのを知っていたかのように、僕の方に振り返った。

言葉は交わさなかったが、ユウイチの表情が全てを物語っていた。

ぎくしゃくしていた数日間がとても小さいことのように思えた。

サーファーでしか味わえないこの景色、こんなに美しい時間を共有できる友がいるということの幸せを心から感謝した。

夕焼けに染まり光輝いている遠くの沖には滞在中で一番大きな波が立っていた。