
Photo by Kuni Nakai Written by Kojiro Sawa
僕は旅行雑誌の取材の合間を縫って、ヒロのダウンタウンから車で20分ほど行ったところにある丘の上で、海をぼうっと1人眺めていた。
すぐ横には、1人の老いた白人の男性が座っていた。
数十年前にニューヨークで考古学を教えていたというその男性は、この丘の近くで自給自足をして生活をしているという。
「こんな何もないところで退屈ではないですか?」
失礼なことだとは思ったが、僕は尋ねた。
すると男性は静かな声で答えた。
「ここは何もかも破壊されてしまった。でもまだ面影が残っている。その辺りが好きなのだよ。それに決して暇なんかではない。私にはテレビも新しい映画も観る必要はない。ただ昔の本を読み返すだけ。それだけで十分なのだよ。」
何もかもを悟っているような、そんな老人だった。
それから、彼がもっている、ありとあらゆるハワイについての知識をいろいろと聞かせてくれた。
ダイヤモンドヘッドのクレーターの内側の地下には万が一の時、ハワイ政府が逃げ込む巨大な核シェルターがあることや、“ハワイ”という言葉は“神と息と水”という意味で、“ハワイ”という言葉自体に神聖なる意味があり、また“アロハ”という言葉は“私は神の前に居ます”という意味があるということも教えてくれた
。
そして最も興味深かったのは、最後に聞かせてくれた、ネイティブ・ハワイアンに伝わる伝統的な問題解決技法、”ホ・オポノポノ“というものについてだった。
”目標を完璧にする“という意味があるらしく、”I’m sorry” “ Please forgive me” “ Thank you” “I love you”という4つの言葉を多繰り返し心のなかで言うだけで、すべての問題を解決することができるというものだった。
とてもシンプルなことだが、とてもハードなことだと彼は付け加えて言った。
そして「この数日間にお前に何かが起こる気がするよ。だから、時間が許す限り、この4つの言葉を繰り返すがいい。」
彼は僕に告げた。
信じ難い話ではあったが、僕はその日から時間を見つけてはそれらの4つの言葉を心のなかで繰り返し言い続けた。
彼のもつ何か不思議な力とハワイという神聖な場所が僕にそうさせたように思えた。
綿ほこりが落ちるのも聞こえそうな真っ黒で静寂な夜、澄み切った空に輝く星たちは、矢を放てば射落とすこともできるかと思えるほどだった。
時を重ねることでしか出現しえない色合いで星は輝き続けていた。そしてすぐ頭上にはミルキーウェイがこぼれていた。
人間は宇宙の中に存在しているということを実感せずには居られなかった。
僕等は富士山をすっぽりと入れてしまうほどの大きさを誇る、ハワイ最高峰の山、マウナ・ケア山頂に居た。
初めて見るマウナ・ケア山頂からの満天の星空に言葉を失っていた。
標高4000m以上とあってさすがに冷える。
三脚に立てられたカメラはゆっくりとシャッターを切っていた。
カメラマンは最後の1枚を撮り終えたのか、目で合図をしてきた。
ハワイ島三日目の取材は無事に終わった。
寒さも増し、夜も遅かったので、すぐに引き上げることにした。
帰りはサドルロード(マウナ・ケアの南側にあるヒロとコナを結ぶ道路。“山の稜線が窪んだところ”という意味がある)を通ってホテルのあるヒロへと向かうことにした。
車を走らせて5ほど経った頃、
「車を停めて!」
助手席に座っていたカメラマンが突然叫んだ。
僕は後ろに車が来ていないのを確認して強くブレーキをかけた。
彼は興奮している様子で、車が止まると同時に何も言わず外に出て、トランクを空け、機材を持ち出した。
そして三脚を組み立て始めた。
カメラを設置して、先ほど度同じようにゆっくりとシャッターを切った。
「一体何を撮っているんだ?」
僕は尋ねた。
彼は黙って空に向かって指をさした。
僕はその方向に目をやった。
見に映った光景に一瞬目を疑った。
それは、ハワイでもごく稀にしか見ることが出来ない“最高の祝福”と言われている、ナイト・レインボーだった。
“ムーンボー”とも呼ばれているそれは、満月の光の強い夜、気象条件が重なると静かに現れる。
生きているうちに一度見ることが出来たら幸運だと思っていたが、こんなに早く見ることができるとは夢にも思っていなかった。
僕等は子どものように興奮していた。
真っ黒な夜空に、白い光を放ち、夜空を覆うような巨大なレインボーだった。
昼に見るそれとはまったく違うものだった。
どれくらい眺めていただろうか。
時間が経つのを忘れていた。
その夜が終わるのがもったいなかったので、なんだか歩いて帰りたい気持ちになった。
後日日本に帰国してからの現像を楽しみにしていたが、驚いたことに、一枚もフィルムには収められていなかった。
神のいたずらなのだろうか、それともその場にいたものだけが見る資格を与えられたということなのだろうか。
不思議な現象にカメラマンも驚いていた。
翌朝、カメラマンと2人で、ホテルの屋上で朝食を摂った。
食後のカフェラテを口に運んだ時、マグカップを持った僕の左手を見て、カメラマンが尋ねた。
「今日は結婚指輪はめていないんだ?」
僕は、自分の左手の薬指を見た。
指輪ははめられていなかった。
外したという記憶はまったくなかった。
「昨日の朝は絶対にはめていたよ。ということはマウナ・ケアに登った後になくしている可能性が高いね。」
カメラマンはとても冷静に眼鏡をさわりながら言った。
ホテルの部屋と車の中をくまなく探したが指輪は見つからなかった。
ホテルのレセプションにも聞いてみたが答えはノーだった。
僕は初日に丘の上であった男性の言った言葉を思い出した。
そして心の中であの4つの言葉を繰り返した。
あるとはとても思えなかったが、マウナ・ケアのビジターセンターにも電話をかけてみた。
何度かかけたが、誰も出なかった。
そして、翌日また電話をしてみると、3日後の月曜日までセンターはクローズするという音声が流れた。
3日後は取材最終日だった。
僕は慌てた。
3日後の朝一番に再び電話をかけた。
すると男性が電話にでた。
少しほっとした。僕は指輪のことを説明した。
すると思いがけない答えが返ってきた。
なんと指輪が届けられているという。
最初はからかっているのかと思ったが、素材やデザインを聞いたら僕のもので間違いはなかった。
どうやら、ある女性が、地面に何か光るものを見つけ他ので近寄って拾い、名前が彫られていたのでどうやら大切な指輪だと思ったらしく、係りの人に届けたという。
あの暗闇で見つかるのは奇跡としか言い様がない。
僕は、係の男性に彼女について何か手がかりはあるかと聞いたが、残念ながらないと言われた。
どんな形でもいいので彼女にお礼を伝えたかったがあきらめるしかなかった。
夕方取りに行くことを約束して電話を切った。
最終日の取材を終え、1人マウナ・ケアへと急いだ。
今回の滞在で起きた2つの信じられない奇跡のような出来事に、ハワイの神聖な力を感じずには入られなかった。
もしかしたら丘の上であの老人と出会ったこと事態が奇跡で、そこからすべてが始まったのだろうか。
それともあの4つの言葉が導いたものなのだろうか。
答えは分からなかったが、指輪が見つかったといううれしさと、ナイト・レインボーを見た時の興奮が交差して頭を過ぎっていた。
途中、坂道を上り掛けた時、地平線からまっすぐと聳え立つかのように虹が出現した。
それはまさに七色の帯のようだった。
初めて見る虹の形だった。
カーステレオからは、ケアリイ・レイシェルの「My Love Is A Natural Thing」が流れていた。