第5章 丘の上の笑顔

Photo by Kuni Nakai     Written by Kojiro Sawa

3つ年上のサチコは、数年前に通っていたハワイ島ヒロにある英語学校で、僕以外の唯一の日本人だった。
ヒロに到着した日に僕は高熱を出して、5日間一度もベッドから出られなかった。
刑務所のような薄暗いドメトリ(学生寮)が余計に気分をブルーにさせた。

6日目は学校の初日だった。
やつれ果てた僕は、今にも倒れそうだった。
その時、初めて声を掛けてくれたのがサチコだった。

「あなたも、日本人? よかった、私だけかと思った。よろしく。」

彼女は握手を求めながら言った。

「よろしく。」

久しぶりに人と話をしたのでなんだかとてもうれしかった。
とにかくお腹が空いていた。

「なんだか、具合悪そうね、大丈夫?」

サチコは心配そうに聞いてくれた。
事情を話すと、彼女のランチのおにぎりを分けてくれた。
格別な味だった。その日以来僕らは、一緒に居ることが多くなった。

サチコは1年前にもヒロに来たことがあると僕に言った。
その時に出逢ったのが、ボーイフレンドのタッド。
彼の弟は、ボディーボードの世界チャンピオン。

ハワイの英雄だ。

タッドに結婚を申し込まれたが、ビザの関係で一度日本に帰国しなくてはならなかったので一度断り、お金を貯めてまた来たのだという。

今回はその返事をしにやって来た。
僕とタッドが初めて逢ったのは、サチコと中古の自転車を買いに行った時だった。
タッドが車で連れて行ってくれたのだ。
その時は挨拶を交わした以外は会話という会話はなかった。

口数の少ないワイルドでハンサムな男だったが、どこか哀愁を漂わせていた。

200ドルで自転車を購入することができた。

家まで送ってもらい、2人にお礼を言って分かれた。
その後数回3人で逢うことがあったが、タッドはほとんど僕とは口をきかなかった。

ある日、サチコとタッドと3人でドライブをしている時、1人のローカルがタッドに声を掛けてきた。

「よう、タッド、久しぶりだな。弟のボブは元気かい?」

タッドは「ああ」と一言答えてから再び車を走らせた。
後日、サチが教えてくれた。

「みんな、タッドに会うと、ボブのことばかり聞くの。もちろん弟のことは誇りに思っているけど、彼はものすごくそれが嫌でね。私に言ったことはないけど、見ているとそれがよく分かる。」

「僕が同じ立場だったら僕も嫌だけどね。」

あまりに偉大な弟をもったタッドの宿命なのかもしれない。

数日後、サチコと、ダウンタウンにあるピザショップで早い夕食を摂った。
席について、アイスティーを飲みながら僕は

「タッドとはどうするの?」

とサチコに尋ねた。

彼女の表情が少し曇ったようにみえた。
「そのために今回来たのだけど、正直まだ迷っているわ。でも観光ビザだから後2ヶ月しかヒロには居られないからね。それまでには決めないと。」

「ということは、別れるという選択肢もあるということ?」

「そうね。」少し黙った後、2枚目のピザを手に持ちながらサチコは言った。

「そういえば、昨日タッドが変なことを言っていたわ。私があなたのこと好きなのではないかって。」

「え、僕のこと?」

僕は笑いながら言った。

サチコのことは好きだったが、恋愛感情というものではなかった。

「あなたと話している時が一番楽しそうだって。きっと、私が彼との結婚に迷っていることに気が付いているのかもしれない。」

「だから僕とはあまり口を利いてくれないんだ?」

「そんなことはないわよ。あなたのことナイスガイだっていつも言っているわ。ただ、シャイなだけ。それに、あなたのこと嫌だったら何度もあなたと逢わないよ。」

「それもそうだね。ちょっと安心したよ。」

ピザを食べ終えしばらく話をしてから店を出た。

ダウンタウンを散歩しながら家へと帰った。

空は綺麗なオレンジ色に染まりかけていた。

2ヵ月後、タッドの家に夕食に誘われた。
次の日にサチコが日本に帰るからだった。
タッドが僕の家まで迎えにきてくれた。

2人きりになったのは初めてだった。
結局彼の家に着くまで一言も話さなかった。
まだ、僕はサチコがどういう決断をしたのかは知らなかった。
タッドの家は、ヒロの北側にある丘の上にあった。
ジャカランダに囲まれた家は、お世辞にも綺麗と言える家ではなかったが、リビングから眺めるヒロの町並みとヒロ湾は絶景だった。
家のなかに案内されると、キッチンではサチコが夕食の準備をしていた。

「いらっしゃい。もうすぐ出来るからちょっとそこに座って待っていて。」

「おいしそうな匂いだね。何を作っているの?」

「トマトソースパスタ。タッドの大好物なの。」

「楽しみだな。」

5分ほどして、サチコが出来上がったパスタを運んできた。

「さあ、できたわよ。ごめんね、うちはいつもこうして床で食べるのよ。」

サチコは笑いながら言った。
タッドの家には、テーブルも椅子もなかった。
食事の後は、3人で庭に出てワインを飲んだ。
あっという間に時間が過ぎた。

空は夕暮れへと変化していた。

「今日はどうもありがとう。ところでもう、決めたの?」

タッドが部屋に入ったのを確認してから僕は尋ねた。

「ええ」サチコは空を見上げた。

僕は答えを聞かなかった。というか聞けなかった。

帰る時間が来たので、タッドが送っていくよと言ってくれた。
僕は一度断ったが、そうさせてもらうことにした。
車内はしばらく沈黙が続いた。
車はヒロの町へと向かって丘を下っていく。
ヒロ湾が一望できるカーブに差し掛かった時、タッドが口を開いた。

「ヒロは好きか?」

タッドが話しかけてくれたことに驚いた。

「好きだよ。雨が多いからレインボーがたくさん見られるしね。」

タッドとちゃんと話をしたのは初めてのことだったので、少し緊張しながら答えた。

「釣りは好きか?」

タッドが窓を開けながら続けて聞いてきた。
車内に入って来る風が気持ちよかった。

「日本では1回しかやったことがない。ハワイではまだ1度も。」

タッドが話しかけてくれたことがなんだかうれしかった。
カーステレオからはかすかな音量でハワイアンミュージックが流れていた。

「じゃあ、今度2人で釣りにいかないか?」

“2人”という言葉がひっかかった。
タッドの横顔を見た。いつもと変わらぬ表情だった。
運転席の窓からは、大きなレインボーが見えた。

「もちろん。」

僕は彼の横顔とレインボーを見ながら答えた。

その時初めてタッドの笑顔を見た。

数ヵ月後、ポストをチェックしに外へと出た。

マウナケアの山頂には展望台が綺麗に見えていた。
エア・メイルが入っていた。サチコからだった。
ウエディングドレスを着たサチコが日本人男性と写った写真が載っていた。
僕は初めて見たあの時のタッドの笑顔を思い出した。

頬をなでるコナウインドがちょっぴり冷たかった。